自己主張ができない内気な性格の自分が変化した21年間の分岐点

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小学校教育✖️バスケ✖️カメラ✖️ファッション 教員採用試験合格を辞退してザンビアで教員やってます。 価値主義を伝える教育・デザイン・仮想通貨・映像等を勉強中。 23歳ぶっ飛んでいきます。

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こんにちは。Runです(@zanbian_run)

今日は21年間の人生における分岐点についてです‼

自己紹介でも書きましたが、もっと掘り下げていきます。

大きな出来事を1つずつ書いていきます!

生まれて初めて親に「やりたいこと」を言えたこと。

バスケを始める前は本当に何も自らできない人で(やらされた分小学生レベルの勉強はできた

当時の話をミニバスのメンバーに言うと「覚えてない」って言われますが

小学校の昼休み後に行われる掃除場所のメンバーが私以外皆バスケしてて、「一緒にやろうよ」となったのがきっかけでした。

今考えると奇跡でしかないですよね。バスケを始めてからは朝6時に学校に行き練習。毎日。毎日。

この頃から早起きして、努力する習慣がつきました。

今思うと子供のために朝からつきそう父はすごいですね。

這いつくばってやってたから教員と校長から「なんか家で嫌なことないか?」とかこっそり聞かれたのも覚えています。親のツテで当時日本一のチームの練習にも参加して、バスケへの愛が深まりました。

中学1年が終わった時点で顧問が変わったこと。

1年目は割と試合に出してもらえていました。軍隊のような1年目でしたがバスケを辞めたいなんて一度も思ったことはなかったです。

顧問が変わってから全く試合に出れなくなしました。

愚痴も増え、だんだん自分で腐っていくのがわかってきました。

そんな時に小学生の頃のコーチに「どうせやるならちゃんとやれ」「誰が見たってエース、誰が見たってスタートと思わせろ」この二言で我に返りました。

次の日に校長に
「朝5時過ぎから練習したいから体育館の鍵をくれ」と頼むと即「OK」

神様のようでした。

こんなメンターになりたいですね。いつまでも。

結果は練習試合で出ました。「1試合で54得点」ようやくスタメンに定着。

しかし中体連は不調続き。

市大会を決める試合日の朝練で女バスの顧問から
「気持ちが焦ってるのはわかる。お前は誰よりも練習してきたことは俺も知っている。気持ちを落ち着かせたら自分とリングの間に線が見える。自分を信じろ。」と。

かっこよすぎる。

この時に「先生ってかっこいいな」と思えたことも覚えています。

試合は先生が言った通りでした。

この日は絶好調。(波があるのはいけないことですが)

残り7秒、3点のビハインド、セットプレーの選択は3ポイント一択。「いけるな?」言われた時は素直に嬉しかったです。

人って変わってくれるんだなって素直に思いました。

ボールエントリーして4秒後、ボールはリングに嫌われ、自らチップインでAND1を狙うも笛はならずにそのまま1点差で敗れました。

引退後に「半月板損傷」

中学バスケ引退後に奇跡的に推薦入学の話があり、進学先を決めました。

ただ、当時の偏差値は48でバカでした。

バカのままは嫌だったし、無性に成績を上げたい、そしてこのまま親の言いなりは絶対にダメだと思っていました。

引退後、膝に違和感を感じ病院に行くと「半月板損傷」と診断され、卒業までリハビリ以外の運動を禁じられ、勉強に打ち込むには丁度いい機会ができました。

とにかく朝から晩まで勉強しまりました。

数学だけよくわかんなかったですが、それ以外の得意科目4つを徹底的に伸ばしました。

結果、半年でアベレージ偏差値60中盤は安定して出せるようになったんですね。(MAXは69)

「推薦入学と偏差値の爆上げ」

この結果を持ち、遂に親から何も言われなくなりました。この上なく嬉しかったです。

変えたい何かがあるなら、何も無く吠えるのではなく努力と熱意と結果を出せば勝手に周りが変わる。大きな学びでした。

この記事を見た人には「たかが区大会で何を言ってる」「どのレベルの話だよ」って

思う人は多くいるでしょう。構いません。

この3年間の大きな学びは、全国大会に出るよりも大きな価値ができたと思っています。

これのおかげで今の自分がいるのだから十分。

身近な人が3人亡くなったこと

高校入学して数ヶ月して立て続けに起こりました。

ショックと悲しさを通り越して「無」。

ただ悲しさのあまり行動を止めることはしなかったです。それに明け暮れて自分が何もできなくなったら、それこそ「悲劇」だと思ったから。

この時強く「手を抜かない」「やりたいことをすべてやる」と決心しました。

試合で修学旅行に行けなかったこと

シンガポールに行く予定だったが試合で行けなかったんですね。

「海外に行きたい。外国人と友達になりたい」って思いを叶えるべく、行けなかった代わりに2,3年生時に姉妹校交流で韓国の学生をホームステイで受け入れ、逆に受け入れていただきました。

この経験から

文化交流、知らない土地に出向く楽しさ。

成績のための勉強じゃ英語が全く使えないという自覚。

海外に出て初めて気づく日本の良さ

これらを学ぶことができました。

高校で3年間バスケをしてきたこと

これは分岐点というか、大学生になって気づけたことです。

結論から言うと「日常における無我夢中は嘘をつかれる努力である」ということ。

3年間ゲームメンバーでしたが、スタートの時もあれば、そうでない時もあり、宙ぶらりんな感じ。

そんな位置付けだったんですね。

当時の思考は、

いかにしてスタートになるか

とにかく練習をさぼらず、無我夢中に取り組む

大事な時に怪我をする
これの繰り返しでした。

結果どうなったか。試合に出ても余裕のないスタイル、ミスを恐れる。

なぜか。理由は簡単でした。「スタートになるため。試合のための練習ではなかった。」

いたってシンプルです。

残念ながらそれに気づいたのは高校バスケを引退してからでした。

バスケができる時間と環境が減り、自分にどのスキルが必要で、どういうスタイルを表現したいのか考えていた時に「はっ」と思いました。

それからは、

・目的

・目標

・行動の裏付け

・行動の意識化

この思考が習慣化しました。

出会い

かなり抽象的ですが、大学で教授がつらつらと難しい言葉や自慢を話す講義より(もちろん全てではないが)俄然こちらに価値がありました。

そのために500万借金背負うのも癪な話ですが…。

「佐賀から来たバスケットマン」との出会いはデカすぎました。朝5時過ぎから朝練とかファッションに没頭したりとか。

何よりも1年時に

Run
なんかでかいことしたい
佐賀のバスケットマン
欲しい包丁が京都にしかないっちゃんね
Run
ならチャリやな
佐賀のバスケットマン
そやな

これをきっかけに旅が大好きになりました。


フットワークを軽くすること、やりたいことを迷わず実行することが大切と考えています。

「後先のための貯金がいるから」

「時間がないから」

「親が許してくれるかわからない」

関係ない。やるしかないし、やらないと結果も出ないです。

どうにかなることは身をもってわかっています。熱意を持って実行すれば誰かが見てくれている。決定権は自分にある。決めたら即行動。こう考えることで何にでも思い切りがよくなりました。


 

それから各々「チャリで四国一周」「チャリで東京」「中国、欧州に修行」「アメリカでバスケ」など互いに挑戦し続けました。

まだまだ名前を挙げればきりがないですが、総括すると「優しさに触れた」これに尽きます。

「あなたの協力なしでは成し遂げられなかった。」と思えることがたくさんあります。

発信」という形でこれから還元していきます‼

協力隊への誘い

興味のある方はこちらの記事(青年海外協力隊になるための過程①)へ‼

これもかなり大きかったです。誘われるまで何も知らない選択肢だったから。これがなければ素直に先生になっていました。今となっては最高の選択だったと言えます‼

是非一度立ち止まって

「企業就職でいいのか」

「仕事がストレスになってないか」

「好きなことができているのか」と考えてみてほしいです‼

以上が

21年間の転機。我ながらまだ薄いなと感じているところ。

もっと積んでいきます‼

次回は「協力隊」の話。70日間の訓練内容について。

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